彦根市教育委員会 市史編さん室が発刊された「ひこね 明治の古地図」に開出今町の紹介があります。

市史編さん室の承諾を頂き掲載しています。

 

開出今は、犬上川の下流に位置し、西は湖岸部の八坂村と堺をなしている。

 

「滋賀県物産誌」(明治13年(1880年刊))によれば、人口738人、戸数166

 

軒の村であった。

 

 本図は「犬上郡開出今村」とのみ記されており、正式な図名や年紀の記載を

 

欠く。各地筆には、小字地名、「上田」「下田」等の地目と等級、及び面積が書

 

かれているものの、地番の記入は見られない。

 

このような様式からみて、本図は明治四年(1871)に彦根藩の命によって、作

 

製された耕地絵図であると考えられる。

 

 開出今の村域は、犬上川の左岸と右岸の両方にまたがる特異な形態を呈して

 

いる点で注目される。集落は、本図にみるように村域南端の左岸に位置してい

 

るが、元来は犬上川右岸の小字「穴田」の地にあり、それが中世に左岸の現在

 

地へ移転したものと伝承されている。

 

 本図にみるように、犬上川の左岸域と右岸域で耕地の地割に大きな相違が認

 

められる。左岸には整然とした条里制地割型耕地が展開しており、条里の坪並

 

に合致する小字地名も残存している。集落の西側には、「三ノ坪」「九ノ坪」

 

「十五」「十六」の数詞地名が続いている。これに対して右岸の村域北部はか

 

なり乱れた地割となっている。この地割の攪乱は、犬上川の旧河道によるもの

 

と考えられるが地元では往古の犬上川は現在の河道よりも北方を流れており、

 

当村の北に接する大藪村の南川へ流れ込んでいたといわれている。旧集落域の

 

伝承地である小字「穴田」の周辺も、旧河道とみられる地割が存在しており、

 

集落の移転が河道の変化と関わっていた可能性が想定される。

 

 本図においては、この村域の北端、大藪村との境界線上に大藪南川から続く

 

水路が描かれているが、地元の伝承では、このあたりまで田舟入ってきたもの

 

という。「滋賀県物産誌」にも、当村に船が四隻あったことが記載せれてお

 

り、すべて小船であったにもかかわらず、物資を搭載して松原港へ航行してい

 

たことが記されている。

 

 「滋賀県物産誌」には開出今村の生業として、農家の傍ら漁業をおこなって

 

いた記録があるが、琵琶湖に面していない当村において漁場として重要であっ

 

たのは、本図にも大きく描かれている犬上川であった。アユをはじめ鱒などの

 

川魚が彦根市街へ出荷されていたという。犬上川の描写に関連して注目される

 

のは、集落の中を北上していく街道をはじめとする三本の道路が、川越えに際

 

して河川敷の内部にごく小さな橋を設けていることである。また堤防の内部に

 

は、竹藪の他、畑の地目も描かれており、河川敷が一部畑地として利用されて

 

いる様相が本図より読みとれる。

 

 当村の村堺について、犬上川右岸の東側、西今村、野瀬村との村界線は、六

 

町分ほどの直線となっているが、この村界線は、犬上郡条里の十里と十一里の

 

里界線に相当するものである。また小字図にみるように、この村界線に沿って

 

小字「庄堺・中庄堺・北庄堺」が分布している。「庄堺」という地名は、隣接

 

する野瀬村周辺に比定されている中世の「福満庄」と、西方の八坂村遺称地と

 

する「八坂庄」との境界を示していた可能性もある。

 

 

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