昭和五十四年十月に営まれた二尊会像御下附五百年記念法要
で当時の十六世住職の憲城氏が二尊会由緒書を記された中か
ら抜粋。
覺勝寺開基
佐々木慧宗は幼年の頃出家剃髪して三井寺積善院に僧となる。
四方遊歴し終わりに当村辰巳の方にありし天台宗円満寺と伝え
る一院に来り茲に住持す。その後京都に上り諸方に遊学す。
時しも真宗本願寺八世蓮如上人は日夜に道俗を勧化し宗旨を
拡張し玉ひ大谷の一流漸く再興せんとす。茲に於て延暦寺の
僧徒等真宗の隆運を妬み終に大挙して夜襲し本願寺の殿舎を
焼く。上人は仏祖の尊像を奉じて諸方に難を避け給える折な
りき。この時慧宗は親しく上人の勧化に遇い忽ち帰服して
勤仕し粉骨砕身以って上人を擁護し周旋せり。上人嘉賞し玉ひ
褒美としてご直筆の六字各号、五条袈裟を賜わりかたく直弟とし
給へり。慧宗感涙し退きて円満寺に帰り寺を改転して村の中央
に移し、四方の檀徒を勧進して真宗に誘導し、遂に寺基を造
り茲に一寺を開闢する。依りて蓮如上人は円明鏡山光顕院覺勝
寺と号命し給ふ。これを覺勝寺の開基創始とす。
年時不詳なるも上述の事実より見れば寛政六年(1465年)
から文明五年(1473年)の間ならんか。
覺勝寺歴代住職
一世 慧宗:覺勝寺開闢
本山に奉仕し当国中郡に於いて番方講なるもの
を組織し、労を尽くして遠近の檀徒を教論。
二世 永宗:父の業を継ぎ大いに番方講の興隆に尽砕
三世 永尊:益々番方講に尽力
四世 玄尊:寺運隆昌、番方講尽力
前坊守 別所豊後守の娘
後坊守 若狭少将勝俊の娘(井伊直滋実母)
五世 永玄:番方講に尽くす
承応三年 井伊家より制札設置
六世 通玄:病弱の為、寺務も思うが如く勤まらず
七世 湛霊:幼少にして番方講の棟梁も務まらず高宮円照寺
に預ける。
坊守は井伊直與公実子橘太郎の実母
本堂再建(井伊家の後援により領内募財の觸書
が出て完成、鬼瓦等は往時の井伊家紋の井桁を
使用)
八世 玄明:湛霊の養子下岡部 長照寺より 表門建立
九世 玄霊:当時中與の住職
智光院 鎮蔵禅師の百五十回忌法要を井伊直幸
香資をもって勤める。又本山に対しては番方講
の俗人の掌中にあり給仕無礼に流れるを概き
講元を再び当寺に還されんことを出願。又能筆
家にて十本校異の三部経を出版する。
弟に海道なる人物あり、和漢の学者詩人で藩校
弘道館の設立に井伊直中の命により尽力。
十世 恵越:玄霊の実子 父に先立ち死す。
十一世 恵通:恵越の養子 平田村明照寺より
十二世 慧実:領法伝達役寺を勤め為に帯刀を許され属本山と
彦根候との周旋をする。
本堂再建現在の堂なり 書院移築
十三世 慧性:金亀教校又布教の達人にして裂網社を組織し
現世祈祷を排し安心の正意を守る。お寄講を
毎月開く。奈良で布教中急死。
十四世 正真:上枝村西還寺より入寺
本山に奉仕し総代會衆、金亀仏教中学の校長
引続き第三仏教中学(平安高校)の校長となる。
十五世 鉄城:秦荘町東出正光寺より入寺
本山に奉仕し総務在職中急死
宗門葬の栄をたまわる。
勧学、龍谷大学学監、二度もハワイ、米国、ブ
ラジル等巡回随行等宗門の発展に尽力又寺域の
整備に寄与する。鐘樓堂、梵鐘、再建再鋳、表
通りの石垣及土塀新築、庫裡、書斎新築、本堂
及書院の大修理等
十六世 憲城:
十七世 一樹:
十八世 憲城:平成二十三年七月本堂焼失。
平成二十五年一月死す
十九世 康勝:代務住職(本光寺住職)